ふーみんみん

日記。

自分の好きは綺麗なままで

Xでは納まらない文量なので久しぶりにブログを書きました。いつも以上にまとまりがない文章でお送りします。

 

仕事の1つに会社のホームページ、新聞や情報誌掲載用のコラムやレポートの執筆がある。普段の仕事は依頼主の意向や仕様に左右されるが、このタイプの仕事は縛りが少なく、自分の好きなことを好きに表現できる。私は半年前にとあるコラムを執筆した。思いを乗せて気の向くままに執筆してそれなりに思い入れがあるものだった。コラムはそこそこ反響を頂き、私は自分の好きが多くの人の目にとまったことを喜んだ。

ここまでなら自慢話だが、本題はここから。友人経由でコラムが様々な場所で引用されていることを知った。気になって見てみたら、ざっと見ただけでもブログやTwitterなど10件以上は出てきた。正しく引用して貰える分には問題ないのだが、私の本意とは異なる切り抜かれ方、(私個人としては受け入れられない)偏った思想をされてる方の発信のサポート材料(クソリプの材料にも笑)として使われている事例もあり、相当複雑な気持ちになった。

私たちの仕事は、正しさの保証人となることだ。普段から自分の正義を曲げて発信せざるを得ない時はあるし、完成物が本意とは異なる使い方をされることもある。しかし普段は依頼者の思いを代弁している(依頼者の正しさを保証する)にすぎず、自分の思いが標的になることはなかった。

私は好きやワクワクを形にして届けるのが好きで、人生の一つのテーマだと思っている。今までの発信は共通の思いを持つ人に向けてで不特定多数の人の目に触れる可能性が低いものばかりだった。今回の件で、好きを大きく伝えることはリスクも孕むと再認識した(そして、私自身が自分の思いが正しく使われないことに相当な嫌悪を感じることも知った)。当たり前だが、大衆にとっては私の発信は各々の主張を正当化する材料にすぎず、私の思いやストーリーはどうでもよいのだ。

ある程度思いがないと良い文章が書けないタイプではあるが、傷つけたくない思いを守るために発信内容や手段は選ばないといけないと思った。特に仕事関係の発信は会社名もあり変な使われ方をされる可能性があがるから慎重になりたい。一度失ったり汚れたものは戻らないことが多い、自分の好きは綺麗なまま保存したい。

 

PS:この件でモヤモヤしていた時に、好きを発信することについて対話の場で話した(偶然でびっくり)。布教したい!と自分の好きに対して思える方の強さが少しばかり羨ましかった。