ふーみんみん

日記。

考え中(一度見てしまうと元には戻れない、私の記憶は本物なのか)

小話を二つほど。まだ考察が浅いので引き続き考えていきたい。

本日がっつり飲酒済みでお送りしますので、誤字等は明日にでも見直します。

 

「一度見てしまうと元には戻れない」

一度見てしまうと(発展して考えてしまったことは)もう忘れることができない、ということを意識する場面が最近多い。この不可逆性を意識してあえて見ない、考えない姿勢も必要かもしれないとも思う。しかし、目に入ってしまったもの記憶されてしまうし、(今後の成り行き=)見えてしまったものは無かったことにはできない。

中々難しいなと思う日々である。

特に"今後の成り行き" が見えることは、先見の明があるのではなく自分の思考の選択肢からゴールを定め可能性を狭めている(ゴールを勝手に向かう様誘導している)だけな様な気がしてならない。

 

「私の記憶は本物なのか」

私は視覚情報の記憶力(他は微妙なのだが)は自分でも引くレベルである。

エピソードとしては、

  • 科学館のお客さんの顔を5年分覚えている
  • 他者との会話は基本的に雑談含め録画されている
  • 道は一度通ったら覚えている(旅先含む)

あたりが挙げられる。正直、ここまでくるとしんどい。適度に忘れたい。

ただ記憶力が良い自慢ならここで終わりなのだが

どうやら、精神科に通って自己崩壊をしていた時期の記憶はさっぱりなく、解離性健忘の傾向が見られるということだ。最近まで抜けていることにも気付いていなかった(自分の中でないものとしていた)。

自己崩壊していた時期の記憶がないのは自己防衛から来ているのは分かっているし、記憶にはないが見えない形で自分の血肉にはなっているとは思うが、

自分を守るために記憶を無意識に弄るということから、

  • 他にも抜け落ちている記憶があるのかもしれない
  • 今ある記憶も自分が都合よく解釈されているのではないか
  • 私の記憶しているものは正しいのか

という気持ちに襲われてしまっている。

上記の懸念は、解離性健忘云々だけではなく記憶全般に当てはまることであることであり、尚更複雑な気持ちとなっている。

記憶=ビデオカメラではないので、美化等されるのは当たり前ではあるが、当時とは全く異なるものになっているかもしれない、そしてそれに見た張本人である自分が気づかないのが怖くなる。

 

 

 

対人関係

「対人関係」

私は、人と思考や概念の話をするのが大好きだ。ダイレクトに思考の話をして、自分の中がかき混ぜられる感覚は大好きだ。

そんな私は学部時代は思考や概念の話をできる友人とばかり繋がっていたが少し変わってきた。

ここ最近の私の対人関係構築は

  1. あまり何も考えず好奇心に身を任せ振舞う
  2. (基本的には同族には気付く、バレるので)思考や概念の話をして盛り上がる友達となる
  3. (概念の話がダメそうなら)一切思考の話はせず、場を楽しむ、近況を報告し合う友達となる

の流れに落ち着いている。

恐らく、2と3に見せる自分は異なる側面ではあるが、私の中では2.3も大切な友人である。この流れに落ち着いたポイントを簡単に整理したい。

 

A. どうやら思考や概念の話は好まれないらしい

学部時代の頃は誰もが思考や概念に興味があり、ある程度仲が深まれば、思考の話しができると思っていたがどうやら違うらしい。

そもそも思考することをしない/していても思考や概念の話は嫌い

な人が大半であることに気づいた。(他人の脳内は覗けないので、あくまでも考察だが)

なので、基本的(初対面や思考の話をしないとき)には好奇心に任せて振舞うスタイルでいる。

 

B. 考えている、いないの間に優劣はない

前のブログにも書いたが、人間は結局はどれだけ考えていても、1時の感情に支配され行動しているのだと気付くと、考えている/考えていないに優劣はないのだと気づいた。

正直なところ、以前の私は考えていない(ように見える)人を見下していた節があったが、そのことに気づき考えを改めた。

 

C. 気づきは意外なところに落ちている

ダイレクトに思考の話をするのは最高に面白い。また、私は世間話やただの情報のやり取りは面白くない(それは今もだが)と思っているので、学部時代はつい2の対人関係を重視していた。

しかし、日常の些細な会話、共有する時間の中にも沢山の気づきがあることに気づいた。

自分と向き合うときは、心に響いた言葉や感情をきっかけにするのだが、そのきっかけに思考の話は必須ではなく、美味しいものを食べた、ふとした一言、、、、、なんでも良いのだと気づいた。寧ろ、言語化以前の感覚から得られる未知のもやもやは大変重要だと最近は感じている。

 

D. みんな違ってみんないい、自分の全てを見せる必要はない

色々と書いてきたが、結局はここが大きい。

人間に近寄ってみると、みんな違ってそれぞれに素敵なところがある。

単純に一緒にいて面白いと感じている。

また、これまでの対人関係で、自分の全てを見せる必要はなく、一部でもその人とマッチすれば良いと思うようになった。色々な人を面白いと思えるようになったきっかけだと思う。

 

【備考:最近の対人関係】

少しベクトルがずれるが、ここ最近の対人関係を。

ここ最近は学生時代の友達+会社の同期+αを2〜3ヶ月で1サイクル(人によっては月一)で回すことを繰り返している。

基本的に雑多に人と関わるのが好きなのでコロナ禍で新たな友達が増えない状況はムズムズしている。しかし、私のようにフラフラしている人が一定の友人と密に合うという経験を通して回数を重ねることで見えてくる良さや、築ける関係性にも面白みを感じているところだ。

定型的な恋愛等をするつもりのない私にとっては、他者との繋がり方としては一つの適切解なのかなと思っている。

 

【雑談:私の酒事情】

今日もすでに友人とワインを2本空けていて、アルコール漬けの状況です。

3連休は休肝日の予定が、アルコール!アルコール!!アルコール!!!!です。

ここ最近毎日飲んでますね、基本的には平日はウイスキーか白ワイン、週末は色々なワインのルーティンです。

ウィスキーに関しては、ビックカメラでミニボトルを買い込んで一番口にあった「ザ・グレンリベット 12年」を飲んでいたのですが、週末にウィスキーの品揃えの良いバーで面白さを知ってしまい、色々冒険したい欲にかられています。

ワインに関しては、平日は思考停止で安価な国産の白ワイン(少し甘口)を飲んでます。週末は料理に合わせて買ってきます。

 

ああ・・そういえば年末に久しぶりにたくさん日本酒を飲んだのですが、ビビッと来た日本酒に出会いました。早速、ネットで買う手配をしました。送料考慮して複数本買うかな・・・

まぁ、アルコールを摂取することが目的でない間は問題ないと思いますが、飲み過ぎです。

繁忙期はお酒の力をたくさん借りて乗り越えたいですね。

 

全てが無意味、無価値である

全てが無意味、無価値である

 

大学院終盤に辿り着いた境地である。

この境地にたどり着いた原因は、科学への信仰心が揺らぎ世界の見方が変わったことだと考えるが、他にも

 

  • 考えても辿り着けない領域がある(人間には限界がある)
  • 世の中に絶対はない
  • 感情(と運命)に振り回されている、という点は皆同じである
  • 他者は想像以上に自分とは異なる

 

あたりに気づいた事も影響を与えてそうだ。また一つ一つに対して、書きたいと思う。(実家のキーボードが絶妙に打ちにくく挫折)

 

まあ、全てに価値も意味がないと気づいたことで、世の中に対して寛容になり、世界や自分の眺め方がより冷たくなった。(他者に対しても変な軸で評価しなくなり、色々な人と付き合える様になったかな…合う合わないはあるけど)

一種の悟りですかね。まあ、歳をとると行き着く思考の一種なのかもしれませんね。

 

 

年末は帰省をしています。色々な選択をしなくて良いので楽ですが、自由はないですね。また、無限にご飯やアルコールがでてくるので、(とても美味しいし、気持ちは嬉しいのですが)体が重いです食べないと親が不機嫌になるから食べますが、食べることは好きじゃないんだよなあと恵まれた愚痴を吐きます。

本当は東京でゆっくりする予定でしたが、諸事情でフルフル帰省することになりましたので残りも頑張ります。

 

 

 

脳内の言語化はほどほどに

脳内の言語化はほどほどに

 

脳内でぼんやり考えていたことが言語化できた時、快感を感じる人は一定数いるのではないか。

私もその一員である。私にとって脳内が言語化できたときの快感は凄まじく、学部時代は「言語化」が「考えること」の一つのゴールとなっていた。

 

 

しかしここ数年、脳内の言語化は、本当に必要な時(例えば他者への伝達)や、趣味として発信する時以外はしないようにしている。 

 

 

理由としては、

 

  • 言語化の過程で理由づけや取捨選択が無意識下で行われ、色々な感覚が抜け落ちてしまう。

 

  • 言語化の際には一定のストーリーが付加される。そのストーリーを信仰してしまい、他の可能性を潰してしまう。(ストーリーに含まれない感覚等はなかった物にしてしまう)

 

あたりが挙げられる。

 

私の脳内は、言語、視覚、感覚色々な情報でごちゃごちゃしている。

筋道立てて論理的に考えるのではなく、色々な情報を頭に詰めて、かき混ぜて、ふとした瞬間に一つの形となりアイデアが生まれる感じである。

 

思考のユニークさをよく評価していただくが、この思考方法(言語化しない、カテゴライズしない)のお陰かなと思っている。自分の良さを維持するためにも言語化はそこそこにしたい。

 

しかし、他者に伝える際には言語化(それ以外にも方法はあるが…)が要求される。

他者に完全に伝えることは無理だが、行動を共にする際にはエッセンスを伝える必要はある。

言語以外でカバーもできるが、シンクタンクでは言葉で語る必要がある(よく官僚スライドと言われるあれです…)

仕事を始めて、自身の言語能力が低すぎることを痛感する。ボキャブラリだったり、言い回しだったりね努力が必要ですよ。

 

まあ、(私は考えることが趣味なので)仕事のために考えている訳ではないが、自分の強みを伸ばしつつ、苦手を克服していきたいですね。

 

 

コレじゃなきゃいけない!は存在するのか

コレじゃなきゃいけない!は存在するのか

 

好きなこと、したいこと、なりたいもの…と向き合うことが要求される場面は多々ある。それも人生の分岐点とか重要な側面で要求される傾向がある。(社会的な話だと、私の場合は直近は就活や、キャリア形成になるのかな)

 

その際に、自分の中のコレじゃなきゃいけない!を見つけるために、自己を冷静かつ俯瞰的に眺めてみると、コレじゃなきゃいけない理由はないことに気づく。
(そんな感覚なので、巷で"○○じゃなきゃダメ!""〇〇が好き!"と宣言する人を見ると、正直眩しくて直視できない、まあ、それは置いておいて)

私の中で、"決める"ということは流れゆく思考をピン留めするような感じなんだろうなと思う。ピン留めしなければ、思考は流れていってしまう。
過去の自分の選択を振り返ると、決定時の心の向きに従っているだけのように思う。ワクワクする、他の選択よりは嫌な感じはしない…とかね。

その選択に軸(コレがしたい)はなく、環境や精神状態が違えばまた違う選択をしていたのだろうとも思う。


前のブログでも少し書いたが結局は感情、運命には逆らえないなと思う。

こうなると、選択時に自分の心身のコンディションを整え正しく感じれるようにするくらいしか出来ないのではないか、とも思う。

しかし、その心の向きには法則性があるようにも見える、もう少し自分を眺めてみたい。


もし読んでくださった方のなかに、好きなもの、コレじゃなきゃ!がある方がいたらぜひお話を伺いたいですね。

 

無事に本日仕事納めをした。
仕事自体は激務だが、精神ストレスは少ない。
社会にでたら丸くならざるを得ないと腹を括っていたが、そんなことはなく、これまで以上に自分の好き勝手やれている点には感謝している。組織としてはどうかは微妙だが、皆好き勝手やっているね。弊社のインターンに参加した友人からは、今は絶滅寸前の古き良きアカデミアの雰囲気を感じると言われたが、その通りだとは思う。

と言う雑談でした。

 

科学はタチが悪い

「科学はタチが悪い」


私が大学院で一番学んだことは?と聞かれたら迷いなく、

  • 科学は絶対ではない
  • 研究はひとつのモノの見方に論理という最もらしいストーリー付け、相手を納得させる活動である

と知れたことだと答えるだろう。

高校生の時は研究者になり、真理を追究するのが夢だった。
しかし実際に研究をしてみると、人間が理解できるのはごく一部で、理解自体が正しいかも分からない、のだと気付いた。あの時の喪失感は今でも鮮明に覚えており、私の信仰が揺らいだ瞬間であったと思う。

(科学は一つのモノの見方としては良いと思ってます。科学の発展で人類が救われたのも事実ですし。あと、研究というプロセスは今でも好きだ)

 

まあ、そんな私も社会人となり、シンクタンクで働いている。

主には科学を使って研究(物語を作る仕事)をしている。

研究活動と似ているが、ストーリーに金や権力が混じり始め、大学院時代より生臭くなった。
虚偽の報告は勿論しないが、色々な人の欲望を汲んでストーリーなんて好きに作れてしまうのが現実だ(勿論それはしないようにしている)。その上出来上がったものは、絶対的なものとして皆に信仰される。

まぁ、違和感を覚えつつも、本当にこの結論で皆が幸せになれるのか、は常に考えて仕事はしているつもりだ。


グダグダ書いてきたが、結局何が言いたかったかというと、

  • 論理は(欲求をカモフラージュし)相手を洗脳する道具にしか過ぎない

ということだ。
更には、

  • 科学は、論理で固め綺麗で絶対的なフリをしているからタチが悪い、結局は人の欲望の塊だ。

ということだ。科学を仕事にしたから気付いたことでもある。

(大学時代は、金や権力とは距離が遠く、影響力も小さかったから気づけなかったが、結局は研究費を取る、良いジャーナルに載せる、共感されたい…などの欲望が根本にあり、仕事生臭さと同じだと思いました。まあ、自分の欲望に気づかず無意識で論理を使っていたなと反省してますね。)


コロナ禍において科学を道具として使うマスコミ、それに振り回されたり、信仰してしまう人間を見て科学のタチの悪さを再確認しているところである。
また、人々の心に訴えるための理屈づけに科学を使う姿を見ると、論理のターゲットは人々の感情や心だとも再認識している。

そうなると結局人は感情で動く生き物だという結論になるので、論理的に考えること(考えること自体)の意味がいまいち分からなくなってきますね。

 

酒の勢いを借りて一気に書きました。
結局この文章も思いを取捨選択して伝わるように書いているわけで、論理をうまく利用しているだけだ、と言われたら反論はできません。

最近の思考は重く根深くなっている、グチャグチャな文章でも少しアウトプットしないと思考に潰されそうなので、ゆっくり更新していきたい。

修士課程を終えました

修士論文の審査、発表会を終えました。

そして3月末の学会が中止となったため私の研究生活はほぼ終わりました。

残りは投稿論文ですが、前報がで次第なので恐らく2年くらいかかりそうですね。

出来れば在学中に投稿したかったのですが、一つの研究をスタートから論文投稿間際まで責任を持ってできたので満足です。

 

今振り返ると、精神を半分崩しながら研究をしておりました。体調も限界で、慢性的な不眠や生理不順、ストレス(が原因であろう)慢性胃炎、胃酸過多で虫歯になったりと散々でした。

側から見るといろいろなものを犠牲にしているように見えますが、私自身は研究に没頭できた3年間はとても幸せでしたし、ある意味自分をギリギリまで削ったからこそ眺められた世界があったと思っています。

 

 

出来の悪い私を最後まで見捨てずご指導してくださった先生には大変感謝しております。

先生のご指導で研究も評価していただき、国際学会、国内学会で賞をいただき、修論でも高い評価をいただくことができました。

援助をしてくれたり、心配をしてくれた両親、私の都合で振り回していたのにも関わらず支えてくれた友人たちに大変感謝しております。

という謝辞っぽい言葉を述べて締めておきます。

 

来年度からも研究っぽいことをしますが、生物からは離れます。

これからは無理せず生きていきたいです。