脳内の言語化はほどほどに
脳内でぼんやり考えていたことが言語化できた時、快感を感じる人は一定数いるのではないか。
私もその一員である。私にとって脳内が言語化できたときの快感は凄まじく、学部時代は「言語化」が「考えること」の一つのゴールとなっていた。
しかしここ数年、脳内の言語化は、本当に必要な時(例えば他者への伝達)や、趣味として発信する時以外はしないようにしている。
理由としては、
- 言語化の過程で理由づけや取捨選択が無意識下で行われ、色々な感覚が抜け落ちてしまう。
- 言語化の際には一定のストーリーが付加される。そのストーリーを信仰してしまい、他の可能性を潰してしまう。(ストーリーに含まれない感覚等はなかった物にしてしまう)
あたりが挙げられる。
私の脳内は、言語、視覚、感覚…色々な情報でごちゃごちゃしている。
筋道立てて論理的に考えるのではなく、色々な情報を頭に詰めて、かき混ぜて、ふとした瞬間に一つの形となりアイデアが生まれる感じである。
思考のユニークさをよく評価していただくが、この思考方法(言語化しない、カテゴライズしない)のお陰かなと思っている。自分の良さを維持するためにも言語化はそこそこにしたい。
しかし、他者に伝える際には言語化(それ以外にも方法はあるが…)が要求される。
他者に完全に伝えることは無理だが、行動を共にする際にはエッセンスを伝える必要はある。
言語以外でカバーもできるが、シンクタンクでは言葉で語る必要がある(よく官僚スライドと言われるあれです…)
仕事を始めて、自身の言語能力が低すぎることを痛感する。ボキャブラリだったり、言い回しだったりね…努力が必要ですよ。
まあ、(私は考えることが趣味なので)仕事のために考えている訳ではないが、自分の強みを伸ばしつつ、苦手を克服していきたいですね。