ふーみんみん

日記。

ドイツから帰国して

ドイツから戻りました。

帰国して一ヶ月ほど経ちましたが、冷静に考えても一度日本を出た方が良いという結論になりましたので、海外に出る方向で準備をしようと思います。(感想を書かず次の目標を書くのは私らしいですね笑)

実現できるかは分かりませんが、やるだけやって後悔のないようにします。決意表明も兼ねて色々と整理しときます。

 

この様な結論に至った理由は多々ありますが、大きなところは以下の3つでしょうか。

1.元から海外で生活したいと思っていた

学生時代から海外に出たいと思っていました。タイミングや金銭問題、言語に対して苦手意識が強い…等で腰が重く実現できずにおりました。まあ、全て自分の力不足や逃げ続けてきたことの結果なのですが。

 

今回思い切って出てみて、やはり自分は外に出たいと思いましたし、言語とも向き合おうと思いました。社会人になりお金も貯まり親に迷惑かけずに済むので、良いタイミングだと思ってます。

 

2.ドイツの生活がフィットした

ドイツで1ヶ月過ごしてみて、食生活、生活習慣、空気・・・etcここまで身体の波長にあう生活が存在するのかと感動しました。

勿論、しがらみや過度なストレスがなかったことも重々承知しておりますが、それを考慮してもここまで心身の体調が良かった1ヶ月は初めてです。この環境でもう少し暮らしてみたいと純粋に思いました。

 

3.日本以外の選択肢を持ちたい(できれば若いうちに) 

長い人生、日本だけで過ごすのはもったいないなと思います。また、世界情勢を眺めていても、日本以外の選択肢を持っておくことはプラスになると思っています。

今回ドイツに行ってみて様々な生き方があるなと思いました、日本では”こうあるべき”が多く、そこから外れることが許容されにくいですからね。

 

なので早いうち(と言ってもアラサーですが)に出て人生の選択肢を増やすことも良いかと思います。何歳からでも挑戦できるとは思いますが、取れるリスクや選べる選択肢は変わるとは思います。結婚出産をしてしまうと一気に身動きが取れなくなりますから若いうちにと思います。

 

 

 

方法としては、私の言語力を考慮するとワーホリで一年が現実的かと思います。その後については、語学が上達し、経験が積めれば満足するのか、海外定住したいのかが分かりませんので未定ですかね。

この辺りは、飛び立つタイミングで日本に残してくる人やもの、向こうでの就労状況等にもよるかと思います。

 

何とか実現させる方向で進めたいですが、運とタイミングの要素も強いと思います。とりあえずは

  • 語学力強化
  • 情報収集
  • 事前の根回し(渡航先での就職先探し、会社との交渉等)

を進めたいと思います。

現実的な話、会社をどうするか、今の家をどうするか、なども考えないといけませんしね。

来年の今頃、どのような形で人生が進んでいるか楽しみですね。真面目に頑張ります。

メモ

怒涛の出張ラッシュが終わりました。

帰りのフライトで寝れないので、久しぶりにブログを書こうかなと。(このブログの下書きは2月頭に書いて、その後2ヶ月放置しました)

驚いたことに約1年間もブログを書いていなかったようです。

 

この3ヶ月で、アメリカ、スイス、ドイツ、ドバイ、オーストラリアに行ってきた。

6日間で北米ヨーロッパ梯子旅、上司とほぼ徹夜で仕事合宿、帰国後その脚で客に会いに行くなど、闇深い出来事も多く、良くも悪くも記憶に残る仕事になったと思う。

 

またこの出張で得たご縁で、今春一ヶ月ほど海外で仕事をしつつ過ごせることになった。

海外脱出は長年の目標だったが、お金、語学力、何より自分の腰が重く動いていなかった。

やらないと後悔するよと(相当)強く背中を押してくれ、滞在のサポートをしてくれているご夫妻には感謝したい。

 

言葉は相当苦労するし、生活が合わず日本に戻りたいと思う可能性もありそうですが、まあ、それはそれで良いと思っています。やってみる事が大切ですね。

 

 

色々ありすぎた3ヶ月でしたが、主に3つのこと思いました。

 

変化を恐れず何かをすることは大切

 

私は面倒くさがり屋で必要に迫られないと動かない。更には、変化が怖いので現状維持を選択しがちだ。

 

今回は半ば強引に仕事で新しい世界に連れ込まれましたが、色々な刺激、新たな出会いを得られ良かったと思う。

 

学生までは受験、研究室選び、就活社会がイベントを用意してくれますが、会社員になると自ら世界を開拓する必要があるとと感じています。

 

やらない理由を探すより、まずやってみるくらいの方が良いんでしょうね。

 

 

人生は運とタイミングだ

海外出張に行って海外滞在の話が降ってくるとは夢にも思っていなかった。

 

この話は色々な条件がうまく噛み合い実現した。当たり前だが、私1人でどうこう出来た話ではないし、一つでも条件が合わなければダメだっただろう。

 

結局のところ、自分が努力したり、あーだこーだ考えてたりしてどうにかなることは少なく、人生はタイミングや運に支配されているように思う。

このようなタイミングや運は大きな転機に対して感じがちですが、毎日の電車、傘の立てる場所といった無意識に選びがちなものもインパクトの度合いが異なるだけで本質は同じだと思います。

日常は絶妙なバランスで成り立っているのです。ありきたりだけど、今を大切に生きる事、は大切ですね。

 

 

◯大抵の失敗はなんとかなる

今回の出張は何も調べず身一つで飛び込んだ。

ハプニング続きで、その場その場で対応してなんとかして来ました。

 

この件を通してある程度失敗しても大抵は何とかなる、失敗するリスクを怖がってはいけない、と思えるようになったかな。まあ、もちろん失敗は怖いが、失敗した時に落ち込まず立ち向かうことのできる強さを持ちたいですね。

(といいつも、準備はあまりせずその場で帳尻を合わせるタイプではありますが…)

 

とりあえず、来月からの海外滞在は辛いこと等沢山あると思いますが、良い経験となるようにしたいです。

選択

社会人2年目が終わろうとしている。

この2年間のテーマは「やりたいことをやる」であった。好きな場所に行き、好きな人たちに会い、好きなだけ寝て・・・学生時代にはできなかったことができたと思う。特に一人の時間を味わうことができたのは良かった。誰にも邪魔されず全神経を集中して1つのことをできる時間は大変貴重であった。この2年で自分を再発見することができたし、大学院時代の経験を深く考える時間も取ることができた。

 

3〜4年目のテーマは「選択」にしたいと思う。

仕事に対しては意志を持って仕事を”選択”していきたい。

最近までは「与えられた物から好きなものを見つけていこう」と考えていたが、このままだと中途半端になると感じている。仕事の性質上、色々なテーマの仕事ができるのだが、何せ時間がない。少ない情報で概念を何となく掴み、走りながらチューニングしていく感じであり、社会や業界の枠組みを多く学ぶだけで分野の本質がつかめているかと言うと怪しい。

だから意志を持って仕事を選択していく必要があると思った。視野を広げ続ける必要はあるが、ある程度の軸を持ち広げていかないとダメだ、小手先の技術しか身につかない。数年後の自分想像し、戦略的に仕事を選んでいく必要があると思っている。まぁ、この2年で(どんな無茶振りも応えてきたので)色々な世界を眺めることは出来き、進みたい(たくない)方向性は見えてきたのでよかったとは思っている。

ここまでは仕事を続ける前提で書いたが、(まだ若いし)もう少し人生攻めても良いのかなと思っている。今の職場は仕事は忙しいが給料も悪くなく安泰ではある。しかし、いくつか自分の中でしたい(が胸に留めている)ことがある。自分の人生で大切にしたいこと、したいことを考えて思いっきり動くのも悪くないと思っている。

 

また、私生活においても選択をすべき時期に差し掛かっていると思っている。

正直、2年間ソロ充をすれば飽きると思っていたが全然飽きない。次から次へやりたい事が出てくるし、まだまだ楽しめそうだ。しかし一方で、どこかで区切りをつけ他者と生きていく選択をした方が良いなとも感じ始めている。

理由は色々あるのだが、今後体験しうる経験や感覚の総量を自分一人で得られるものと他者と過ごして得られるもので天秤にかけたときに圧倒的に後者の方が多いと感じているから、と言うのが大きいかもしれない。あとは大学時代の恋愛で人間関係には定型はないのだ、と感じれたことで人と共に生きることの拒絶感がなくなったのも大きい。まぁ、他にも色々ありますが。

私を可愛がってくれていたおじさん方に、君は人生の方向を考えるとき他者と生きる選択肢を入れなさい、と口すっぱく言われてた理由が何となくわかってきたな・・。

 

土曜日もコソコソ仕事の文章を作成していたし、私は文章を書くのが好きなんだろうな。ブログの文章はめちゃくちゃではあるが(仕事の文章は真面目に書きますが)。そろそろ対話がしたいな。

 

 

それっぽいことを自信満々にいったもん勝ち?

(これは2022年の1月に書いた下書きを投稿した記事です、現在の私の考えとは若干異なりますが書き上がっていたので投稿します)


それっぽいことを自信満々にいったもん勝ち

 

だなと感じる。

世の中、”ストーリー”と”自信”が揃うと簡単に人を信仰して(騙せて)しまうのだ。それを上手く利用して成功している人が多いのではないか。

 

世の中で信仰されている正しそうな情報でも分解するといい加減だなと思うことが結構ある。例えば、専門家が分かりもしない未来ついて適当な情報と理由を並べて予測したり、過去を適当にピックアップして如何にも分かっていた様に発信するのが最たる例だ。また、上部が綺麗でもよく見ると論理的でない部分や誤魔化しがある情報も多々ある。

結論は同じでもよくわからないストーリー付けをされていたらその情報は信じるだろうか?発信者が自信なさげに話していたら信じるだろうか?(まぁ。そもそも、人間が言葉で説明できるほど、世界も、人自体も単純ではないはずだ。)

 

色々述べたが、情報は”正しさ”よりも、人が”正しいと認識するか”が大切なのだと思う。

その認識のファクターが冒頭で述べたストーリーと自信であると思う。

 

そのように考えていくと、飲むだけ〇kg痩せました!といった如何にも胡散臭い情報とメディア等で発信されている情報は(信じる人の数が違うだけで)根本は同じように見えてくる。(受け手にとって)それっぽいストーリー、信じるに値する話ぶりかが大切なだけである。

 

全ての情報に疑いの目を向け精査するのは、疲れるし、無限に時間があっても足りないだろう。一方で、何も信じないのも現実的ではない。だから、如何にも正しそうな情報(正しそうなストーリー、偉い人が自信を持って話している)を信じる基準になるのは納得できる。

 

私自身も手元にある情報を選定していくしかないのであるが、情報そのものの性質は心に留めておく必要があると思う。

また、視点を変えると、そういった正しくはない情報で世の中が回っている事に気づく。世界は本当に不思議なバランスで成り立っているなと思う今日この頃。(文章の締まりが悪い)

 

私が思っている以上に世界は広い

私が思っている以上に世界は広い

 

【考えるフェーズから抜けた】

私のベースは、考えるな!感じろ!!であるが、時々、溜まった感覚について考える時期がある。何事もやりすぎる癖があるので、考え出すと沼にハマる。

 

12月からそのフェーズが始まり少しずつ調子が悪くなり、

1月はガタガタだったが、今週末に無事に抜けた。

一通り現状の心の向きや思考は把握できたので良かったと思っているが、

今回は長く、一種の鬱なのではないか、と不安になった時期もあった。

(振り返ると12月は土日は毎日(下手したら朝・夜で複数の)人に会い、上司に飲みに連れまわされたりで、身体も疲れていたのも悪かった)

 

考えるのを辞めるべきかとも思うが、センスオブワンダーな自分と思考する自分の二者があってこその自分であり、考える時間がないと逆に不安になるので、時々はクヨクヨ悩むのは仕方がないと思っている。

まぁ、無事に終わってよかったです。しばらくは感覚的に生きていきたい。

 

【抜けてみて思ったこと】

自分の世界に没頭してしまうと、

(絶対ありえないのだが)自分が全てを見てしまった様に錯覚してしまうことがある。

この錯覚が思考の歪みを加速させると感じる。

 

色々な物事に対して極端な思想を持つ人はいるが、私の思考の歪みと同様で、物事対して限界を決めてしまったり、自分が全てを知ったつもりになることが原因なのではないかと思った。

物事に白黒つけ自分の世界を正としてしまうと、自分の世界を信仰する様になり、思想はどんどん偏り、他者を許容できなくなる。最悪な場合、攻撃性も伴ってくる。

 

 

まぁ、人間が感知できることなんて対して高が知れているのだ。

自分の持つ情報で何かを決めつけてしまうのは勿体ない。私自身は常に色々な可能性を模索して生きていきたい。

冒頭にも述べたが、私は一人で考え込むと世界を知ったつもりになってしまうことがある。

それを防ぐためにも

 

  • この世は知らないことばかりである
  • 世界、人間は私が思っている以上に複雑である
  • 自分はちっぽけで平凡な存在である

 

あたりは心に留めて生きていきたい。

そう思い続けるためにも、自分の世界にとどまらず、色々な経験をして世界を広げていきたい。

 

 

 

 

 

 

現実へ没頭するべきなのか

現実へ没頭するべきなのか

 

【ここ最近の辛さ】

私は、

  • 人は皆平等に終わりに死がありそれまで生きることはできる。しかし、それ以上でも以下でもない(基本的に全てのものは無意味、無価値だ)

と思うようになり、辛さの質が変わった。

これまでの辛さの原因は、特定の事情や、孤独感が主たるものであった。

対人、特定のイベントへの不安、憂鬱感、劣等感…それは時が経てば終わることであり、終わらなくとも諦めがつくことが殆どである。

孤独感も一時的に埋める方法もあるし、放置すればいずれ和らぐ。
今でもその類の不安やストレスはあるが自分が揺さぶられることはない。

 

しかし、冒頭に書いたように、

全てが無意味、無価値であり、我々は終わりの死に向かい生き続ける存在でしかないと思うと、なんとも言えないどんよりとした気分になる。この運命には抗えない、と思うと絶望を感じ、一種の消滅願望を抱く。この感情は掘り下げてはいけないと思っている。(注:決して病んでいるわけではない)

 

【辛さからの逃避術】

年々この感情は重く根深くなってきているが、

  • 現実に没頭する
  • 他者やモノ(酒等)に自分の一部を委ねて思考を手放す

あたりを上手く取り入れて騙し騙しやっている状況である。

現実にいれば思想の世界に深く潜ることはないし、自分を手放せば考えることもない。

ありがたい事に、私にとって現実はとても楽しいものだ。現実の私は、毎日キラキラした世界でワクワク、ドキドキしながら暮らしている。今日もコウモリが部屋に侵入した時の対処法を調べたり、無邪気な資料を作ってワクワクしていた。

(少し話が逸れるが、日常では悩みがなさそう、愉快な人、という認識されている。Twitterや言語とリアルの印象が異なるので、Twitterにリアルの人は極力入れないようにしている)

 

【現実に没頭すべきなのか】

もしかしたら、人は、

  • 現実や他者との関係性に没頭して生きていく

のが正常なのかも知れない。

私の一種の病的とも言える思考は孤独と考えすぎからきている様に思う。

完全な孤独を避け、考えることへの執着は捨てて現実で幸せに生きた方が良いのではないか、と思う。(よく考えると、大学院時代は多忙とストレス故で大変であったが、日中は忙しく、夜も他者と過ごしていたので病的な思考にハマっていなかったのかも知れない。)

 

頭では、運命に抗うことはできないのだから、深く考えず、今をクラゲのようにぷかぷかと流れるように生きていった方が良いと思っている。しかし、考えることへの執着からか、どんどん根深くなっていく。良くないです〜〜〜〜考えることが趣味なのも厄介なものです。

まぁ、しばらくは現実に没頭する用事があるので、この病的思考からは離れられそうです。

 

【雑談】

今日も楽しい1日でした。先輩と核融合の話で盛り上がり、仕事をしながらこの文章を書き、お昼休みには美術館へお散歩に行きました。

コウモリによる狂犬病アメリカで流行っていると言う記事を読み、コウモリについて色々調べて遊ぶ余裕もありました。

 

そういえば、年末くらいから、一つにエンターテイメントとしてこのブログに文書を書いていますが、今朝、読み返してみると(誤字は多いが)間違ってはいないと感じました。

これはよくない傾向です。この文章は、色々な思いの中から1つのパフォーマンスとして成立するように誇張や選抜をして書いたものです。オリジナルの状況を忘れないようにしないとね。以前にも書きましたが、思考の言語化はほどほどに。

 

 

 

 

 

 

 

 

考え中(一度見てしまうと元には戻れない、私の記憶は本物なのか)

小話を二つほど。まだ考察が浅いので引き続き考えていきたい。

本日がっつり飲酒済みでお送りしますので、誤字等は明日にでも見直します。

 

「一度見てしまうと元には戻れない」

一度見てしまうと(発展して考えてしまったことは)もう忘れることができない、ということを意識する場面が最近多い。この不可逆性を意識してあえて見ない、考えない姿勢も必要かもしれないとも思う。しかし、目に入ってしまったもの記憶されてしまうし、(今後の成り行き=)見えてしまったものは無かったことにはできない。

中々難しいなと思う日々である。

特に"今後の成り行き" が見えることは、先見の明があるのではなく自分の思考の選択肢からゴールを定め可能性を狭めている(ゴールを勝手に向かう様誘導している)だけな様な気がしてならない。

 

「私の記憶は本物なのか」

私は視覚情報の記憶力(他は微妙なのだが)は自分でも引くレベルである。

エピソードとしては、

  • 科学館のお客さんの顔を5年分覚えている
  • 他者との会話は基本的に雑談含め録画されている
  • 道は一度通ったら覚えている(旅先含む)

あたりが挙げられる。正直、ここまでくるとしんどい。適度に忘れたい。

ただ記憶力が良い自慢ならここで終わりなのだが

どうやら、精神科に通って自己崩壊をしていた時期の記憶はさっぱりなく、解離性健忘の傾向が見られるということだ。最近まで抜けていることにも気付いていなかった(自分の中でないものとしていた)。

自己崩壊していた時期の記憶がないのは自己防衛から来ているのは分かっているし、記憶にはないが見えない形で自分の血肉にはなっているとは思うが、

自分を守るために記憶を無意識に弄るということから、

  • 他にも抜け落ちている記憶があるのかもしれない
  • 今ある記憶も自分が都合よく解釈されているのではないか
  • 私の記憶しているものは正しいのか

という気持ちに襲われてしまっている。

上記の懸念は、解離性健忘云々だけではなく記憶全般に当てはまることであることであり、尚更複雑な気持ちとなっている。

記憶=ビデオカメラではないので、美化等されるのは当たり前ではあるが、当時とは全く異なるものになっているかもしれない、そしてそれに見た張本人である自分が気づかないのが怖くなる。